記号論において言語学者ソシュールが提唱したシニフィアン(能記/signifiant)、シニフィエ(所記/signifie)は今日の絵画を読み解く上で欠かせない概念となっている。絵画において我々の眼前に呈されるのは作者の選んだ記号の組み合わせだ。鑑賞者としての我々には、作者が提示するシニフィアンを越え、奥に潜むシニフィアン---意味や意図を読み取ることが求められている。
本作は4人のランナーグループ、1人の脱落者とみられる女性、そして街灯で構成されている。
まず画面右の街灯に注目しよう。 この硬く、そびえ立つ無機物は4人のグループランナーと女性を分かつように配置されており、ランナー達と女性の間の分断を暗示している。またこれによって画面左手:右手が1:1.618(およそ)の黄金比に分割されている。
さて、画面左、4人のランナーたちは同じ表情・同じ姿勢で走っている。 「4」という数字、統制のとれた動きや服装から、彼らはミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエルの4大天使の表象であると読み取れる。男女比が同じであることも、天使の両性具有性を示している。
ここでレオナルド・ダ・ヴィンチ作《処女受胎》と比較してみる。 作者はダヴィンチの影響を公言しており、”My muse has been and will always be Leonard”(British Vogue Art Edition, 2011)と述べている。
画面構成は同じく黄金比で、右に女性、石机を挟んで左に天使ガブリエルとなっている。ただレオナルド作では ・天使と女性がお互いを見ている ・天使の数が1名、 という点で大きく異なり、元の絵では ・天使-女性がお互いを全く見ていない ・複数の天使 という全く逆の構成になっている。
本画では4大天使であるランナー達が全く女性を見ていない。目を閉じたまま走る彼らは自己の正当性を全く疑っていないかのようだ。路肩に外れていく同胞へ目もくれず、胸を張り、自信に満ちた姿で走り抜ける。そう、神に導かれているからだ。
一方画面右の女性は惨めに肩で息をし、汗まみれで、疲労困憊といった表情である。元はランナーグループに属していたことが彼女の服装で明示されている。一度は天使に属していたが外れたものといえば ---堕天使ルシファーである。疲労困憊の彼女の姿は神との戦いに負け、堕天した直後のルシファーの表象と言える。また、彼女1人だけがつけている左腕についたデバイスに注目すると、漆黒で、彼女を縛り付けていることからこれも彼女の欲望・内在する「悪」の表出と読み取れる。
ここで彼女と街灯の関係を改めて見てみよう。
作中において街灯は唯一の物体であり、有機的な人物と対をなす存在、つまり人間に他ならない。また、女性と対をなすものは男性であることから、この街灯は人間の男性の表象であるとわかる。しかしこの女性街灯の関係にはもう一つ対比があることにお気づきだろうか?それは女性かつ柔らかく弱い存在に対して硬く、強く屹立しているもの、つまり男根である。彼女(ルシファー)が頼ったものは人間の男根に他ならない。
作者Marina BHはドイツ出身であり、当地の「ワルプルギスの夜」伝説では、年に一度魔女達が悪魔と性交を行い、その魔力を強化する。ゲーテの戯曲『ファウスト』にも登場するこの伝説を知らなかったとは考えづらい。また、折しも本作が描かれた前年に、作者は長年続いた女性とのパートナーシップを解消し画商の男性と交際を始める直前であった。
これらを踏まえてもう一度本作を読み解くと、これは天の軍団に敗北し堕天したルシファーが、再起を求め男性との性交により力を得ていく過程を描いたものだと導き出せる。
本作における敗北/勝利・女性/男根の表象は繰り返される主題として、作者の晩年まで影響を与え続けてきた。それらについては解釈が割れる作品も多く、今後の研究をさらに進めるべき課題である。
参考文献 Komatsu E., F. de Saussure. Troisieme Cours de Linguistique Generale (1910-1911) d'apres les cahiers d'Emile Constantin, (Oxford, 1993)
Grabar A., Christian Iconography: A Study of its Origins (Princeton University Press, 1968)
Weitzmann K. (ed.), The Age of Spirituality (New York: Metropolitan Museum of Art, 1979).
Smith J., “Interview with HER” British Vogue Art Edition:60-62(Conde Nast, 2011) |