「産声と一緒に出たシャワーは温かくてね、あんた産湯がいらなかったのよ」
ことあるごとに、母は懐かしそうに僕に話して聞かせた。
シャワーの父と人間の母の間に生まれた僕は、喋るとおでこからシャワーが出る。そのおかげで周囲からは気味悪がられ、意地の悪いクラスメイトからはいじめられ、友達の1人もできないまま中学を卒業した。その頃の僕のシャワーは弱々しく、そして冷たかった。高校1年の春、いつものように校庭の隅で叫びながら蟻を殺していると、1人の女子が話しかけてきた。
「ねえ、ホームセンターの心って見たことある?」
それがみっちゃんとの出会いだった。みっちゃんが言うには、ホームセンター(以下ホムセン)の中には人間でいうところの心にあたる部分があり、それはバックヤードのような人目に触れない場所ではなく、探せば当たり前に通路上に陳列されている、だけど誰もがその通路を無意識に避けて通っているから見つけられないのだそうだ。そしてみっちゃんいわく、一緒に探しに行かないかとのことだった。僕はもちろん快諾した。あまりにも頭のおかしい話で恐ろしさもあったが、僕のシャワー要素を踏まえずに会話を仕掛けてきてくれた人なんていなかったから。その後、一緒に探したけど結局心は見つからなかった。しかしそれからというもの、僕とみっちゃんは毎日会って遊ぶ仲になった。その頃から僕のシャワーは力強さを増し、熱く熱くなっていった。時折、みっちゃんにも火傷を負わせては、2人で転げ回って笑ったものだった。
高校を出てすぐ、みっちゃんと結婚した。僕は死体を洗うバイト、みっちゃんはスーパーマーケット(以下スーマー)の共働きで生計を立て、貧しいながらも楽しく暮らしていた。でも、そんな僕たちにも悩みがあった。毎日セックスしているのに、みっちゃんがなかなか子宝に恵まれないことだった。自分の男性としての機能に問題があるのではと考えたある日、思いきって精子を調べるお医者さん(以下精調医)に行って調べてみると、「あー、あんたあれだね、子種が全部シャワーの方に行っとるね」とのことだった。だからあんなにハメ続けたのに妊娠しなかったのかと思い、みっちゃんにも事情を打ち明け、その日からトーキングクンニが僕らの夜のスタンダードになった。しかし、喋りつつも舐め、しかもシャワーを膣内に押し込まなければならないトーキングクンニは想像以上に難しく、気づけば歳月は過ぎ、子供が出来ないまま僕たちは40歳になった。その頃の僕のシャワーは生ぬるく、あきらめの速度で流れていた。
「もういいよ、私たちよく頑張ったよ、それで十分だよ」
みっちゃんはなんでもないように笑ってみせてくれた。僕なんかと一緒にならなければと、みっちゃんのいない場所で声をあげて泣いた。シャワーがジョロジョロと涙を洗った。
80歳。体を悪くした僕は寝たきりの生活になった。みっちゃんは甲斐甲斐しく僕を介護してくれた。シャワーはもはや汗のように弱々しく、氷のように冷たかった。ある日、ふと今日が最後だとなんとなくわかって、みっちゃんを呼ぼうとしたら、みっちゃんが来た。みっちゃんもなんとなくわかったらしい。みっちゃんがベッドの横に座って、手を握ってくれた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
僕はただひたすらにそう繰り返した。握られた手にポタポタ落ちた最後のシャワーは温かかった。 |