ある地方都市の小さなオーケストラに、打楽器を演奏する男女がいた。 男の名はシンヤ。女の名はスバル。 二人はいつしか惹かれあい、息子を授かった。
二人の名前から二文字ずつを取り、息子は「シンバル」と名付けられた。 息子は二人にとって、両手のシンバルを重ね鳴らした音のようだった。 調和であり、結晶であり、そして夢だった。
シンヤ、スバル、シンバルの三人家族は、幸せな毎日を過ごした。 決して裕福ではなかったが、朝も夜も、音楽と笑顔が溢れていた。 シンバルは、両親が鳴らすシンバルの音が大好きだった。
ところが、そんな日々は長く続かなかった。 不況の波が地方都市にも押し寄せ、オーケストラは潰れ、 シンヤとスバルは音楽の道から外れざるをえなくなってしまった。
失意の二人はろくに働きもせず、空虚な日々を彷徨い始めた。 楽器を叩くことは皆無になり、その代わり、息子のシンバルを叩くようになった。
「邪魔なんだよこのクソガキ! まぎらわしい名前しやがって」
「あんたが生まれてからよ! こんな状態に縛られ始めたのは」
振り下ろされた拳や、振り回された平手が、シンバルの小さい身体で音を鳴らした。 悲鳴と悲愴とが家の中を席巻し、夢のような時間は霧のように消えてしまった。
「ねぇお父さんお母さん。何か楽器をえんそーしてよ。 あ、そうだ。あのね、ボク、シンバルが聴きたいな」
幼いシンバルだけが家族の絆を呼び戻そうと声を出していたが、 それも両親には響かず、空しく宙に散るだけだった。
「けっ。シンバルなんざ、とっくの昔に売っぱらっちまったよ」
そんな日々が続いたある時、両親の腹の虫の居所が平素以上に悪く、 シンバルは家の外に設置された小さな倉庫に閉じ込められてしまった。 雪の降りしきる、寒い冬の夜だった。
「出して! ねぇお父さん、お母さん、ここから出してよっ!」
ドンドン、ドンドン、ドンドン。
「さむいよぉ。くらいよぉ」
ドンドン、ドンドン、ドンドン。
シンバルは、その小さな手で、金属製の扉を叩き続けた。 しかし、倉庫に近付く足音は一向に聞こえてこなかった。 ただ、洞穴のようなその場所で、鈍い音がいつまでも響くだけだった。
どれくらい時間が経った頃だっただろうか。 扉を叩くのを止め、じっと倉庫の中で蹲っていたシンバルは、 床に置いた自分の両手が、何かに触れているような感覚を覚えた。
冷たく、大きく、平たい、円形のモノ。 それが自分の両手にくっついている。
シンバルだ。お父さんとお母さんのシンバルだ。 シンバルは確信し、両手を持ち上げ、自分の身体の前でゆっくりと重ねた。
シャーン。
美しい音が、鳴った。 シンバルは再び両の手を開き、そして、重ね合わせた。 開く、重ねる。開く、重ねる。何度も。何度も。
シャーン。シャーン。シャーン。
シンバルが倉庫から出たのは、次の日の朝だった。 さんざんシンバルに辛い仕打ちをしてきたシンヤとスバルでも、 息子の遺体を空っぽの倉庫の中で眠らせ続けることには、抵抗を感じたようだ。
小さかったシンバルの両手は大きく腫れ上がっていたが、 二度と変わらぬその表情は、昔のような安らぎに満ちていた。
〜〜〜〜〜〜〜
こうした悲劇が、昨今の世の中にはありふれている。 不況や不景気は人々の心を蝕み、不幸の種を撒いている。
しかし、蔓延る悲愴の根と比べ、世の中を良くしようという声は少ない。 皆、自分さえよければそれでいいと思い、我関せずと黙り込んでいる。 まるで、自分達には社会を変える力など無いと決めつけているかのようだ。
悪政の跋扈。公共圏の崩壊。市場の混乱。 こんな時代だからこそ、皆が声を上げるべきなのではないだろうか。
今こそ、右手に夢を持ち、左手に希望を持ち、 胸に秘めたシンバルを鳴らす場面なのではないだろうか。 |