話が下手な老人「そうですねえ、私は高校を卒業していちど島を出たのですが、26の時に親父が不慮の事故にあって亡くなりましてね。それまでは都会のほうで自由気ままに暮らしておったんですが、葬式を終えて実家の居間で母と二人きりになったら、それまで落ち着いていた母が急にしくしくと泣き出して、そのうちに突っ伏したりして、よくみたら体も昔に比べ少し小さくなったように感じてね、とてもじゃないけど一人にはできないという気持ちになって、まあ潮時かなということで帰ってきたんです。父の仕事はまあこんな島ですから多分にもれず漁師だったわけですが、私には経験もありませんし、正直に言って一から学ぶ根性もありませんでしたから、しばらくは島の中でフラフラしておったんですが、子供の頃わたしの髪を切ってくれていた人ね、あなたがさっき『島に一つだけの床屋』とおっしゃったけども、いまはまあ確かに私がそうなんでしょうがその当時のね、いわゆる島に一つだけの床屋であった山木というおじいさんが、私の顔そりをしてくれてるときにふっと「あんた内地でやっとったんならワシの店やらないか」ってわたしの視界に入らないとこで急にねえ、言ってきて、わたしは顔そり気持ちいいと思いながらえーとかまあそうですねえとかハハとかその場では言ってね、でも家に帰って母親とご飯を食べながら『山木さんそう言ってくれたし俺やろうかなあ』とか言ってたら決まったことみたいに自分の中でなっちゃって、もう次の日には頭を下げに行ったんです。そこからまあ1年くらいは山木さんの手伝いをしながら店の勘定のやりかたとか覚えてね、それでほとんどタダみたいな額で店をゆずってもらって一人でやるようになったのが28の時、ちょうど50年前ですね。」
そういうきっかけがあったのですね。島の人の反応はどのような感じだったのですか。
老人「うーん。まあ全員顔見知りみたいなものなので、誰かと会えば挨拶をして、おー帰ってきたのかとか、こっちで仕事はなにをするのとか、まあゆっくり考えたらいいんじゃないですかとか、だいたいそんな感じのことを最初はみんな言ってくれて。あとは同級生なんかで飲みに誘ってくれる人がいて、といってもこの島に飲み屋なんてありませんから、その人の家まで行ってお酒を飲みながら昔の話をしたりして、でも大変だよこんな島で、外で暮らしてたんならそれはもうそれでよかったんじゃないかとか言われて、まあ帰ってきちゃったし、これからゆっくり考えるよというようなことを言いながらヘラヘラしてたら床屋をやることになって、けっこう驚かれましたけどでもお前がやるんなら店行きやすくなるよみたいな、山木のじいさん別にいい人だし頭もはっきりしてるけど無口だからなとかそんな感じの反応でしたかねえ。」
なるほど。すんなり受け入れられるようなかたちでスタートしたわけですね。そこからの50年という月日はどのようなものだったのでしょうか。
老人「うーんまあね、なかなか一言で言い表せるものじゃないですけど、やっぱり50年続けてきたというのはね、ここがあまり変化のない静かな島だとはいっても感慨はあります。私の場所というかね、私の人生の大半の時間がこの店とともにあるわけですから。なんかこうね、同じ営みをずうっとね、続けてきたんだなと思います。これでよかったのか悪かったのかとかね、そういうのはもう超越してますね。ただそうしてきたというか、うん、まあこういう人生を歩んできたからというか、私がこの場所でこういう生活をして、歳を重ねて、そういう空気感のなかで見てきた世界というのかな、そういうのはもしかしたらあるのかもしれないとはなんとなく思いますね。」
本当に私のような若輩者には想像を絶するというか、温泉さんにしかわからない感覚というのかな、そういうものは絶対にあると思います。 それで、今回のテーマというのが、印象的なエピソードということなのですが…
老人「ああそうでしたそうでした。すみません、ついうっかり。普段ね、店のことやってたら昔のこと振り返るなんてことあまりありませんから、この年にもなっていまさらね。そうですねえ、狭い島ですから小さい人間関係のいざこざとかね、そういうのはいつの頃もあったとは思いますけど、40歳くらいのね、ちょうど働き盛りのね、こんなでっかい船なんかねえ、立派な、持ってる人が「こんにちは」とか言って、「聞いてくださいよ」とか言ってね、いつもの短い髪を整えながら、「会長さんにね、言ってるんですよ、役場の言うことも聞かなきゃダメですよって。俺たちが助けてもらってることもあるんだからって。そんな偉そうにしてちゃダメですよこんな小さな島でねって言うんですけどね」とかそういう愚痴を聞くわけです。「まあ年配の人はなかなか頑固ですよねえ」なんてね、お茶濁してなんかかんか言ってね、「大変ですねえ、私でよかったらいつでも話聞きますから、私みたいな関係ない人間にだったら色々話せますでしょ」なんて言って、そしたらその人が帰ったあとに入れ替わりくらいで漁協の会長さん来てね、「本当に誰のおかげでこの島が食えてると思ってるんだよなあ、あんたもそうでしょう、偉そうに言いたくはないけども、しかし尊敬はあってしかるべしですよ、お役人だかなんだか知らないけどぼうっとした顔で何言ってるか聞こえない声でねえ」なんてまくし立てるように言ってねえ(笑)、そういう気まずい思いをすることはしょっちゅうあったけど、まあ私なんかみなさんが来てくださるおかげで飯が食えてるわけでしょ、漁をされてる方のように命を張ってということもないですし、いったら気楽な商売なわけでね、まあ誰に肩入れするということもなく波風立てないようにというか、そこはまあこの狭い人間関係のなかでは気をつけてましたけど…」
島だからこそのご苦労というのがあったわけですね。
老人「いやまあ苦労というほどのものではありませんけどね。仕方ないですよこういう環境ですから。それでまあ、そのエピソードなんだけど、思い返すと一度ね、変なことがありました。」
どのようなことなのでしょうか。
老人「あのねえ、この島にも少なからず観光にくる人というのがいてね、だいたいほとんどが夏に来て、だからそういう時期には民宿のようなことをやる家が何軒かあるんですけど、全然季節外れもいいところ、1月くらいの一番寒い時期にねえ、この島にある女性がふらっとやって来たんです。」
その女性というのは、この島のご出身ではない方?
老人「そうですそうです。誰も見たことない。たまたま乗船場の近くにいた人、その人ジョジョ立ちさんって言うんだけど、ジョジョ立ちさんによるとね、白と黒の、千鳥格子っていうんですか、そういう柄のコートを着ていて、なにやらニコニコとして、そうして前かがみになってなんだが楽しそうに海面を覗き込んでいたということでした。その人が好奇心を満たそうとして近くを通り過ぎようとすると話しかけられて、この島にしばらく滞在したいのですが泊まれるところはありませんかと聞かれたそうです。それでああ何軒かありますけど急に行って部屋を空けてくれるかどうか、この近くに一軒あるからとりあえず案内しましょうかと言うとぜひお願いしますということで一緒に向かったらしいんですね。島の東側に回り一列になって階段を登っているとその女性が、スイスイ歩いてすごいですねえ、この島のみなさんこういう階段にはみんな慣れちゃって平気なのかしらとかそんな感じのことを言ったそうで、ああすみません、ゆっくり歩きますねとジョジョ立ちさんが言うと、いえいえいいんですよ、私もね、運動しないといけませんから、しかしいい眺めですねえ、やっぱり来てよかったです、ここでしばらくゆっくりしようと思うのでよそ者が目障りかもしれませんが、何か手伝えることがあったらやりますし、よろしくお願いしますねと言ったくらいで追いついて来てジョジョ立ちさんの肩に手をついたそうです。ジョジョ立ちさんによると、爪にあんこが付いていたということでした。」
なるほど。どれくらいの年代の方だったのでしょうか。
老人「ジョジョ立ちさん?」
いえ、その女性です。
老人「ああその女の人はねえ、20代後半から30代前半くらいの感じに見えましたね、髪が長くて。それからしばらくのあいだ島にいたのですが、毎日いろんなとこうろうろしてねえ、誰にでも話しかけるんですよ。いま何時ですかとか、くるみの木ですかとか。男性にも女性にも、目についた人みんなに声をかけるんです。ハキハキとほがらかにしゃべるし話題も豊富で、非常に聡明な方でね、おまけにものすごく綺麗な人なんです。話してるうちにこっちが勝手に赤面しちゃうような、それに聞き上手でもあってね、おうちに上げて一緒にご飯を食べたりなんかしてるといつのまにかこっちの身の上とか全部打ち明けてしまうような、人たらしのようなところもあって、私も含め島の人たちが接したことないタイプの、華のあるキラキラとした、いわば芸能人のような人で、そんな人が島のみんなに親しげに、いわば家族のように積極的にコンタクトを取ってくるものだからみんな舞い上がっちゃって、こっちに来なさいなんでも食べさせてあげるとかね、そういう感じにみんななっちゃって。でもあばずれとかそういう感じでもなくってね、島のじいさんなんかさ、綺麗な人だから、おーとか白いねえとか言いながら手なんかさ、ちょっと握ろうとしたりするじゃない、まあダメなんだけど、そうすると能面というか、能面がいっぱいみたいな物凄い顔になってね、なんですかと一言だけいって、じいさんAが即刻病気になっちゃうような異様な冷たさで、その場を去って足音だけが一面に響くような、だからなんというのかな、若い男連中をたぶらかして島の中をわけわからなくするとかそういう感じは全くなくて、ただただ立派な人というか、みんながその存在に感謝していました。あなたが来てくれたおかげで島が明るくなった、不漁が続いてもあなたの笑顔をみると不安など吹き飛んでしまう、子どものように思える、孫みたいにかわいい、ひ孫にそうするようにお洋服を買ってあげたい、まだ帰らないよね、いつまでいるの、いつまでもいなさいみんながあなたのことを守るからとかそんな感じですよ。あなた何もしなくていいからそこに座ってなさいというような扱いをみんながするようになって、でもその女性も行儀がいいから、いえ働きます、できることはなんでもしますと言って、漁の仕事から帰ってくる男性たちを港に行って出迎えたり、女性たちの仕事の手伝いをしたり、老人の話し相手になったり子供たちの世話をしたり、そうして一日を忙しく過ごして、夜になってようやく、用意された綺麗な部屋に戻って、なにをするでもなくひっそりとひとり眠りについていたようです。半年くらい経ってたかな、その頃には女性はもうその地位というか、島での立ち位置をほとんど確立していたんだけど、もともと長かった髪をさらに伸ばして、ある日突然この床屋に来たんです。」
そこで温泉さんは初めてその女性に会うわけですか。
老人「いえいえ。その女性ね、仮にFさんとしましょう。Fさんとはね、まあ道ですれ違えば向こうから話しかけてきますし、なにをされてる方なんですかと聞かれて、この坂を越えて島の裏手のほうになるんですけども、そこで床屋をやっていますと言うとそうなんですね、私もそのうちこの髪切らなきゃと思ってるんです、予約とかはしなきゃいけませんかと言うから、いえいえそんなものはいりません、先客がいれば待ってもらわないといけないけど、店が混み合うなんてことはこの島で起きるはずもありませんし、好きなときに来てくださいと言うと、わかりました、わたしきょう暇なんです、髪を切るのはまだ先だけど、今から遊びに行っていいですかと言うもんだから、いや正直に言うとね、ものすごく綺麗な人だなと思って緊張していたんです。初対面でもあるし、気まずいと思ってすみません、今日はこれからちょっとね、作業をしなきゃいけないんですとか言って逃げるようにね、じゃあまたとか言ってその場を足早に去ったんです。そのうちにさっき言ったようにFさんも島でいろんな手伝いとかするようになって、忙しくなってからはまあ会うことはなくなったんですけど、だからびっくりしてね。そうですか、どうぞどうぞお座りください、すぐにここがわかりましたかと言うと、おかあさんに地図を書いてもらったんですと言って、そのおかあさんというのはコメダ珈琲っていう人で別にFさんのお母さんじゃないんだけど、まあそういうふうに呼ぶんですね。それでFさんが座って、どのくらい切りますかと聞くと、そのときだいたいFさんのおへそのあたりまで髪の長さがあったんですけども、肩の少し上くらいまで切ってくださいと言われて、そんなに切るんですかと聞くといろんな作業するのに邪魔なんです、切ったほうがいいよってみんなからも言われるし今日ついに覚悟を決めてきたんですいうことでニコッと笑って、ああそういうことですかと言って、まあ切るしかありませんからね、マントみたいな散髪用のほら、あるでしょう、あれ正式になんて言うのかわからないけどあれを着せて、じゃあ始めますねと言って椅子の高さを上げていって、そうして黙って髪をといていますとね、Fさんが言うわけです。この島はねえ、呪われていますよって。え?と思わず聞き返したのですが、Fさんは私の声なんて聞こえていないかのように続けるんです。わたし疲れちゃいました。どうしようかな。声の調子もさっきまでとは違って、なにかこう抑揚がなく血の気の失せたような感じで、私の聞き返しも無視されていましたから一瞬なにかまずいことを言って嫌われたかなと思ったのですがそういうことではありません、明らかに様子がおかしいのです。Fさんはくぐもった声で言いました。『いっつもいっつも魚ばっかり、何?魚を食べるために生まれてきたんですかというような、意識の中で魚との境界がだんだん曖昧になっていくような、魚と一体化した、魚類ではないかというような、単調で恥ずかしい食生活。衣生活。ずっと気になっていたんだけど、みなさん毎日なにを着てらっしゃるのかな。堆肥?クスクス。年末年始はどこに行こうかなじゃ、ない!ここにいたほうがいいよ恥ずかしい思いをする。埼玉県のことを揶揄する目的でださいたまっていう言い回しがあるけど、でも埼玉には島ないですよ。この島はどこですか。うんこ島じゃないクスクス。たんすに入っている服を着て、脱いだ服をたんすにしまって、永久機関とはこのこと。うまい一本取られた山田くん島持ってきて。あとうんこも。でも服を捨てると永久機関じゃなくなっちゃうから捨てたらダメだぞ。毎日同じことの繰り返し。天気にだってバリエーションがあるのに。そういう天気の島?じんましんの出るような老人どもの声や体。考えてみてください。おじいさん然としたおばあさん、あるいはその逆、島にはひとりもいませんね?なぜなら文化がないから。子どもたちのあきらめたような顔。あのテレビ見た?見た。おもしろかった?おもしろかった。どうだった?まあねー。OK。OKてなに!狭い部屋。こだわりのない家具。ガソリン代。錆びた自転車。独特の生態系。神主のいない神社。お寺はありませんキリスト教だから。神社はあるだろうが手触んな馬鹿。ていうかこの島の人たちってみんな太ってません?』私はこの人すごいこと言うしやばいと思って、驚きのあまり散髪には失敗していたのですがそこはすみませんと思いながら急いで外に飛び出し、二度と追いつかれないように当時のベストを振り絞って下り坂をかけ抜け、みんながいる集会所の戸を勢いよく開けてあの人はやばい!と叫びました。稗田阿礼よろしくF氏の発言を暗誦し、島民は騒然として、あの人やばいやばいやばいやばいと大合唱になり、そうして全員を連れ床屋にUターンし、たぶん往復の間に整形を完了していたであろう顔のおかしなFさんを胴上げのような格好で港までひきおろし、そうして港に待機中のフェリーが見えると胴上げ要員を数人に絞り入口を通りFさんだけがいなくなった状態で出口から出てきてビフォーアフター、なんということでしょう、船がちょうど時間になりFさんを乗せて本土へ旅立ったではありませんか、というような具合で、要はみんな決死の思いで今だということで頑張ったわけですね。あの熱気はなんだったんだろうといまでもたまに思い出します。それですね、エピソードは。」
すごい話ですね。ありがとうございます。他には何かありますか?
話を終えた老人「他には?」
すみません。冗談です。長々とご丁寧にお話しいただいてありがとうございました。
老人「いえいえ(笑)」(取材・文:映画監督 写真:ホラー映画の監督) |