樹上歌人 さんの作品
[一] 次の文を読んで、後の問に答えよ。(四○点)
何年か前のことなのだが、日米の研究者の交流会に招かれてシカゴのある大学を訪れたとき、そこのお手洗いの個室に堂々たる巨大なゴシック体で、
↑ No.1 おしっこ
↓ No.2 うんち
とだけ書かれていて、大変驚いたことがある。というよりも、異国の地の権威ある大学構内において目にするにはあまりに不相応な文言であったので、思わずその場で笑いを漏らしてしまった。↑ No.1 おしっこ。読者の皆様方もご存知のあの尿が、これまた著名な糞便を抜いて、栄誉あるNo.1に躍り出るとは! 個室の外で私の笑い声を聞く羽目になった現地の学生たちからは、これ以上なく不審に思われたに違いない。 さて、会議室に戻って英文科のU先生にこの話をしたところ、なんてことはない、浅学な私が知らなかっただけで、日本でいうところの「小」「大」のように排泄物をスラングでそれぞれ「No.1」「No.2」と呼ぶのだと教えていただいた。便器の横に鎮座していたあの表示は、トイレの流し方が分かりやすいようにという大学のスタッフの日本人への善意であって、決して糞尿番付などではなかったのである。 ならばせめて日本のお手洗いよろしく「小」「大」とでも訳してくれればよかろうと思ったものだが、英和辞書で「No.1」「No.2」を引くと「おしっこ」「うんち」が太字の主要な訳として何食わぬ顔で居座っていたので、そっと辞書を閉じるとともに、きっと辞典まで使ってくれたのであろう誰かの心遣いに、とうとう文句をつける訳にいかなくなってしまった。「No.2 うんち」の面白さを思い出すと、(1)それまで当然に受容していた、日本語の「大」やら「小」やらの語彙まで、ナンセンスなジョークのような表現に思えてくるからタチが悪い。ああ、だって、私は自分の大小の便を見た回数については世界のどんな熱心な科学研究者よりも多いと自負しているが、尿が大便よりも「小さい」と感じたことも、大便と尿とを比較観察して前者を「大きい」と判断したことも、果たして一度もないのだ!
「うんち」は面白い。ユーモアが時折見せる過激性や攻撃性が苦手な私も、これは認めなければなるまい。もちろん時と場合を考慮した「うんち」に限る、と言いたいところだが、むしろ時と場合を考慮しない「うんち」こそが場に笑いと緩和をもたらす側面もあるうんち。 古来、笑いとユーモアについては多くの哲学者が関心を寄せてきた。しかしながら、笑いの発生とその流通のメカニズムについて、確固たるうんち合意が形成されてきたとは言いがたい。その一因は、人間のうんち笑いを引き出す要因となる物事が、あまりに多岐に渡っていることであるだろうんち__ 古代ギリシアのプラトンやアリストうんちテレスをはじめ、現代まで受け継がれてきた笑いの理論の一つに、「優越の笑い」がある。このうんち理論は、他者のうんち失敗をうんち笑うんちことによって笑いうんちが生まれるというんちものでありうんち……
(紙面の都合上、本文後略)
問一 「それまで当然に受容していた、日本語の「大」やら「小」やらの語彙まで、ナンセンスなジョークのような表現に思えてくる」(1)とあるが、このように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。 問二 本文には、「うんち」という表現が過剰に使用されているが、この「うんち」という表現の過剰な使用の筆者による意図を、本文全体を踏まえて説明せよ。
問三 「うんちその暴力うんち性と救済うんち性の表裏につけても、うんちユーモアとは、かえすがえす猥雑なうんち営みであるうんちうんち」(2)とあるが、このように言う筆者の気持ちを説明せよ。
○○さんの回答
問一 「No.1」「No.2」が英語で小便や大便を表すことを知らず、それを用いた表記に思わず笑ってしまった筆者は、その体験によって日本語においても「大便」や「小便」という言葉の在り方を自然と問い直すこととなり、その過程において、後述の「ズレの笑い」に見られるような常識と異文化との差異への気づきの面白さと、後述の「破壊の笑い」に見られるような、常識を無意味で下品なもので上書きしてしまう脱力の面白さとを同時に発見したから。
問二 筆者も一人の人間であって、うんちが人間に必要な生理現象である以上、うんちが過剰に出そうであるときであっても、うんちが身体から排出されるのを自身の意思で制御することはできないから。
問三 うんちうんちうんちうんちがうんちであることを鑑みると、うんちはすばらしく、おしっこが最も高い順位を保っているとしても、番付におけるうんちはいまだおしっこに次ぐ地位を有しており、うんちがあなたを笑顔にすることが可能であるから、近づきがたいおしっこよりもむしろうんちのほうを自己と同一視し、うんちになりたいといううんちへの憧憬。
【エラー。】
【深刻なメモリの汚損が検出されました。】
【回復を試行中……。】
【回復を試行中……。】
【回復を試行中……。】
【メモリの回復に失敗しました。】
【現在の学習状況をデリート、再起動します。】
【再起動準備中……。】
(真っ黒な画面が10秒ほど継続。)
(画面点灯。)
(「合格」と書かれたハチマキを巻いた女性の映像が、真っ白な画面に映し出される。)
「桃ちゃん、またエラー吐いちゃったよ、AI桃ちゃんγ-Mk-II」 わたしがそう桃ちゃんに告げると、桃ちゃんは、 「だからその、『エーアイモモチャンガンママークツー』っていう呼びかた、やめてって言ってるでしょ」 と返した。 「桃ちゃんの頭脳を学習したAIなんだから、AI桃ちゃんでいいじゃん」 「私は入学のとき、これよりは国語できたよ」 「理系科目はAI桃ちゃんのほうが得意みたいだけど?」 「……そもそもAIにうちの入試を解かせようなんて無駄だよ、だって」 桃ちゃんはいかにも不満げそうに言うが、その顔はどう見ても笑いをこらえている。 「もうこの世界に大学入試なんてないもんね、桃ちゃん?」 「わかってんじゃん。ほんとうに、私の親友は、無意味な娯楽がお好きで」 「わたしに結局つきあってる桃ちゃんもね」 だってしかたないじゃん、ほかにだれもいないんだもん、文字通り、さ。桃ちゃんは叫ぶように言い放った。
__そう、この世界はおそらく滅びてしまった。みんなご存じの軍事国家の核ミサイルが、自然災害をきっかけに大量に誤発射された。その報復行為として、あらかじめ定められていた報復規定にのっとって、あの核保有国も、あの核保有国も、こぞってミサイルを発射することとなった。過去に現世をあまねく駆けまわった我らがインターネット様が、最期にわたしと桃ちゃんにもたらした情報は、それだけ。この大学の放射線生物研究センター地下実験室で寝泊まりしていた限界院生のわたしたちだけが__少なくとも本学においては__偶然にも生き残った2人となったのだ。 似たような状況で生き延びている人々が他にもいるであろうことは想像に難くないけれど、安易に学外にも出れない、通信ももはやまともに機能しない今となっては、世界にわたしたち2人しか生き残っていない状況と(少なくとも主観的には)さほど変わりはない。 このようにして、わたしと桃ちゃんは、地下の楽園で衒学的なAI遊びに興じるふたりの暇人となった。アダムとイヴが過ごした楽園との共通点は、食糧の心配や他の社会的関係に煩わされずにすむことであり__相違点は知恵の存在と、ここにはイヴとイヴしかいないということであった。
画面の中で勉強に励むAI桃ちゃんγ-Mk-IIから顔をあげて、桃ちゃんは「プラント行ってくるね」と部屋を出ていった。この研究室は、多様な研究作物を育てているプラントと繋がっている。 ここの地下の施設の一部は、緊急時に備えて太陽光以外の外部電源を必要としないよう設計されているので、わたしか桃ちゃんかがよっぽどのヘマをやらないかぎりは食事には困らない。核爆発がこの周辺で極端な地殻変動や恒常的な悪天候をもたらさなかったことは、不幸中の幸いだったろう。 ねえ、桃ちゃん。わたしは心の中でつぶやく。 わたし、じつは、この現状にわりとありがたく甘んじているのです。 大学での生活の断片を思いだす。あまり嬉しいことばかりではない。 同じ学部の木下くんたちが「女のくせに院なんか入って結婚も真剣に考えないやつは、少子化やモテない男性のことなんか無視してるクソ」って話をわたしのいる前でされたこととか、 サークルの野村先輩が「女性は数学が苦手だからと脳科学的に証明されているから、僕ら男が助けてあげねばならない」とのたまうのを聞かされたこととか、 英文科の植田教授が公衆の面前で「かわいいお尻ですね」と声をかけてきたこととか! いや、彼らに怒りたいわけではない。怒りは無益だ。ゴリラがうんちを投げてくるのに怒っても無益なのと同様に。わたしはこれまでずっと、彼らの下の名前が「うんち」なのだろうと想像することで、苛立ちを憐れみにすげかえていた。 爆発の後。9:1だった本学部の男女比率は、一夜にして0:10へと革命的な変貌を遂げた。この大学で学問における男女平等は、けっきょくのところ世界が滅びるまで、いや、世界が滅びてさえ達成されなかったわけだ。 そして、もう言葉のうんちを避ける必要はない。ここには桃ちゃんしかいない。桃ちゃんはうんちはするけど、わたしの見えないところでするし、言葉のうんちもするかもしれないけど、わたしの見えないところでする。 わたしずっとみんなにこう思ってました、うんちは見えないところでしてくださいって。
でも、いまになってやっと、わたしは気づいてしまった。わたしがほんとうにきらいだったのは、木下うんちくんでもない、野村うんち先輩でもない、植田うんち教授でもない。 うんちくんはインターネットではめちゃめちゃいいひと(なんてめずらしいひとだろう!)で、しかも誠実だった、過度な女性不信が彼をあんなふうにふるまわせてしまうのだとDiscordで言ってた。 うんち先輩は桃ちゃんの彼氏だった、桃ちゃんのひとを見る目はそこまで皆無なわけじゃない、どんなに偉そうな態度に聞こえてもあれは心からのことばだった、先輩はほんとうにだれにでも優しかった。 うんち教授の言語論への造詣はものすごく深くて、かつそれを簡明に他者に伝えるカリスマだった、わたしがAIに本格的に興味を持ちはじめたのも彼の影響だった。 ほんとうに嫌気がさしていたのは、うんちくんに、うんち先輩に、うんち教授に、たとえあの場かぎりだとしてもあんなに残酷な言動をさせた世界だった。わたしは世界がきらいだった。そして世界は滅びた。そして世界はわたしのまわりの人々もゴリラも道づれにしてしまった。もし世界がなければ分かりあえたかもしれない人々もゴリラも。 でもやっぱり世界を形成していたひとりひとりは、あのひとたちであって、桃ちゃんであって、わたしでもあるのだから、じゃあけっきょくわたしのせいじゃないのかって、自業自得じゃないのかって、わたしの感じかたが勝手に世界をそこなっていたんじゃないかって、頭のなかがぐるぐるして消えない。 でも、この葛藤が贖罪になるのだとしたら、神様はやっぱり甘すぎます、だってわたしには桃ちゃんがいるので。
あーあ、AI桃ちゃんγ-Mk-IIの最後の支離滅裂な回答、割とあたってるかもしれない。いつか塾の現代文の先生が言ってた。現代文の問題の要求する「筆者の心情」は、つまるところ出題者の世界の捉えかた、出題者の個人的な気持ちを慮って回答するものにすぎないって。そんでもって、今回の出題者はわたしだ。 ねえ、桃ちゃん、桃ちゃんのNo.1おしっこの座は思い出のなかのうんち先輩にくれてやるから、せめて桃ちゃんのNo.2うんちでいさせてください。
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