海…と思わず口に出してしまった。
彼女はちら、とこちらを見てから何事もなかったかのように傷の縫合を待つ姿勢をとり続けていた。血の海というわけでもなかったのになぜか一瞬、青くてきらきらした海が眼前に広がってしまった。
今日最後の手術が終わり、自販機で野菜ジュースを買っていると彼女が横にいるのに気づいた。どうやら同じく上がりらしい。目が合って会釈する。お疲れ様と言える余裕も距離感も、お互い無かった。
そのまま飛んできた「行きますか」に反応するのが遅れた。7時間の手術だったんだから当たり前だ。ん、え、とあやふやな音を出したら少し躊躇してから繰り返してくれた。
海、行きますか。
ホンダのFITで甲州街道を上がって首都高速に乗って、ラジオからはぼそぼそと声しか聞こえない。曲流す時間減ったよなあなんて、白んだ空を見ながら15時間勤務明けの頭で考えられることはそのくらいだった。
思えば彼女とはあまり話したこともなく、ただ何かを渡してくれるときに、こっちの負荷を極力減らしてくれるのがトップレベルで上手で、いつのころからか手術室で一緒に過ごす時間が増えていった。運転も上手なんだなあなんて、カーブ前のブレーキに意識を向ける。下の名前すら知らない同僚と車に乗る程度には海へ行きたかったのかとも思う。ただこうして密室に2人いることに予想より違和感がないというか、前からこうして2人で海までドライブしてきた錯覚すらしてきたので、今だけそういうことにしてしまおう。
あ、東京タワー、と呟くと下のルートにしました、レインボーブリッジ見たかったんでと返される。朝もやに見る東京タワーはなんだか朝帰りのような部活の早練のような、昔肌に触れた空気をしていた。タワーを見たら俄かにテンションが上がったのは相手も同じだったようで、レインボーブリッジの手前でタイミングよくかかった洋楽のボリュームを上げて、おーとか大きいなーとか、声に出して言った。左車線でゆっくり走っていったら足立ナンバーのバンがキレながら追い越していって2人で爆笑した。
朝5時のお台場は空いていた。1時間かからずに海着けるんだ。靴を脱いでかけていくとまだ寒く、それでも砂を踏む足が気持ちよかった。海はむちゃくちゃ臭かった。顔を見合わせるまでもなく、揃って大腸菌…、と言ってまた笑った。偽物の浜辺で朝日を見ながら一緒にタバコを吸った。医療従事者でタバコ吸うやつ初めて見た、と言うと自分もですと返された。
海は想像と全然違った。灰色だったし臭かった。海じゃない匂いしかしなかった。 でもリノリウムのじゃない地面が楽しすぎて3回つまづいて、あっちは1回足を取られた程度だった。なんでよと聞くと体幹、と返ってきた。ふと日々の業務と結びつけて考えてしまって、ちょっとテンションが戻る。その辺の石段に座って、きれいだねと月並みな事言うと、うん、と言って眩しそうに目を細めていた。陽に当たった髪が透けてオレンジだった。
奇跡みたいに開いてた吉野家に入って豚汁とご飯だけ頼んだ。誘ってくれたのびっくりしたけどありがとう、と伝えると少し黙ってから、自分も海、って思ったんで あの時。と言われた。そんな偶然あるのかよ。でもここにいて朝6時に豚汁食ってる。続くなんかありますよね、海行きたい時。思ってた海とちょっと違いました?に思わず頷いてしまったら自分もです、と言って笑った。東京だとこんなんしかないけど、茅ヶ崎くらいまでいくとかなりマシです。って言われたら行きたいって返したら、まぁまた機会あれば。って返ってきた。帰りもずっと、朝のお台場、人工島と人工砂浜と本物の水と太陽でできた薄い粒子に包まれてた気がする。病院の中庭にある蜜柑なり過ぎ、とかたわいない話で笑った記憶がうっすらある。
それから海に行くことも手術室の外で話すこともなくしばらくして自分は別の病院勤務になった。3年経ってたまたま戻ったら、ちょっと偉くなってまだ働いてた。お久しぶりですのやつを一通りやってから初日勤務、帰りに喫煙所に寄ったらいた。まだ吸ってんすか?って聞かれてそっちもね、の顔を返す。一本もらったら5000円ですって言われて、現金なかったからツケにしてもらった。蕎麦食べたいなーって言ってみたら黙ってはす向かいの富士そば指さしてきた。最悪。 |